元ひきこもり ひもニートが「かくれた教育者」であふれる 場をつくる

こころのアシスタント

2025/04/22
 
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「こころのアシスタント」2年目を迎えました。 
下関市にて会計年度職員として令和6年から1年間働くことができました。
「社会教育士」の可能性をためす実践の場だと感じます。

同じ条件で喜んで働ける人は限られていると思いますが、
わたしにとって絶好の機会です。

週2日の頻度が、かかわる限界です。
これ以下だと関係性がつくりにくくなりますが
これ以上だと、道をひらく活動に支障がでてきます。

事業として一人前にする実験場ととらえ
後に続く若き教育者のための人柱になります。

さて、ここからはあくまでもわたしの個人的な見解ですが、、、
 「こころのアシスタント」(ここア)でわたしは、
学校の中に教室以外の居場所をつくるお手伝いをします。
学校の中に学校の文化が及ばない「治外法権」の場づくり、といえるかもしれません。

居場所づくりしながら、生徒が安心して楽しく過ごせる環境を整えます。
居場所に来なくてもいいい。
何かあったときにいつでも駆け込めるところがある。
生徒の心の片隅に認知され、セーフティネットとして機能すればいいんです。

相談室で待つのは性に合わないみたいです。
極力、授業中の教室へ足を運びます。
社会教育士としても、自治体や学校や公民館にいるよりも、
いろんなところに出かけていくのが好きなタイプです。

 「ここア」として働くうえで、わたしが最も大切にしているのは
「親でも先生でもない大人の価値」です。

これは、社会教育を行うわたしの立ち位置です。
「人には親でも先生でもないナナメの関係性の大人が必要」なのです。

 もちろん、「親」「先生」の存在は大切です。

それだけでは足りないことを、わたしは知っています。
身を切り裂くような痛みとともに。挫折とセットで。
「生徒」として生きづらさを味わった体験。
「親」として前のめりになりすぎて猛反省したこと。
「先生」として悪戦苦闘したあげく、挫折した黒歴史。
こじらせる度にそっとすくいとってくれる大人の存在に助けられてきたのがわたしです。

それって当たり前のことだよね、と思われるかもしれません。
ですが、
「親でも先生でもない大人の存在が大切」なことを
成功体験だけではなく負の経験からも目をそらさず受けとめ、頭でなく
体感覚で理解した上で教育活動に転換している(しようとする)大人は少ないとみています。

「そんなの当たり前」と流す大人はわたしの天敵かもしれません。

最近、わたしの天敵「熱心だけど無理解な大人」だと気づきました。
たちが悪いのは、熱心で、本人は無自覚なところです。教育者にもいます。

さて、「ここア」として残された時間は少ないかもしれませんが、

 たった一人でも、こころのうちを、
「ジャッジせずにきいてくれる大人の存在」がいたら、
どんなに救われるだろうか。
その思いを、「ここア」で体現します。

ときには大人にも「対話の力」で積極的に声かけしていきます。
大人たちがかもしだす空気感が、学校の大気を安定させるはずです。
「大人のこころのアシスタント」もかくれた任務のつもりです。
「親でも先生でもない大人」とは「かくれた教育者」なのです。
子どものまわりを、かくれた教育者であふれる世の中にしていくのだ。

 この1年で、わかる人にはわかるかくれシグナルを送ります。
人の中へはいり、距離を縮め、この価値をうけとれる人(老若男女)を見つけ、
その人と唯一無二のエピソードをつくります。

ご縁のあるみなさん、どうぞ、よろしくお願いいたします。 

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